マレーシア入国管理局(Jabatan Imigresen Malaysia)が公表した「Employment Pass Salary Policy 2026」により、2026年6月1日から雇用パス(Employment Pass、外国人専門職向けの就労ビザ)の最低基本給基準が大幅に引き上げられる。最も影響が大きいのはカテゴリIで、月額基本給がRM10,000からRM20,000へと2倍に引き上げられる。日系製造業の工場長・技術部長クラスが申請する区分であり、6月以降の新規申請・更新申請の双方に適用される。SEMICON SEA 2026(5月6〜8日、ペナン)の場でこの問題が再び注目され、業界からは半導体関連の高度職位に対する免除を求める声も上がっている。
計算ルールも厳格化された。これまで住宅手当・通勤手当・賞与・現物給与を含めた総報酬で基準をクリアしていた拠点も少なくない。新ルールでは「基本給(basic salary)」のみが算入対象となり、各種手当を合算する運用は認められない。日本本社の出向元給与と現地給与を併用する駐在員人事の設計に、6月までに見直しが入るのが避けられない。
3カテゴリすべてで実質的な倍増
カテゴリIは管理職・経営層・高度専門職向けで、有効期間は最長10年。基本給はRM10,000からRM20,000へ倍増する。マレーシア国内の管理職市場と比較しても高水準の設定で、ペナンの半導体クラスター(Bayan Lepas、Batu Kawan)における日系拠点の工場長・技術ディレクター層は、ほぼ全員がこの区分に該当する。リンギット建てで月給RM20,000はおおよそ70万円相当(USD/MYR 3.92換算)であり、現地の同等ポストの相場よりかなり上に設定された格好だ。
カテゴリIIは中堅管理職・専門職向けで、最長10年。基本給はRM5,000〜9,999からRM10,000〜19,999へ、こちらも実質2倍に引き上げられる。後継者育成計画(successor development plan)の文書化が必須となり、現地マレーシア人材を後任として育てる具体的なロードマップを提出する必要がある。生産技術・品質保証・調達のミドルマネージャーがこの区分に多い。
カテゴリIIIは技術者・スーパーバイザー向けで、最長5年。基本給はRM3,000〜4,999からRM5,000〜9,999へ実質的に倍増する。これまでRM3,000台で技術者を雇用していた製造系拠点にとっては、人件費の純増となる。後継者育成計画の文書整備もカテゴリIIIから必須化される。
今回の雇用パス基準引き上げは、2026年から始まる13次マレーシア計画(Rancangan Malaysia Ke-13、RMK-13)の「現地人材優先・外国人依存度低減」方針と整合した動きだ。RMK-13は2030年までに外国人労働者依存度を10%まで引き下げる目標を掲げており、後述する多層レビー制度(MTLM)と合わせて、外国人雇用全体のコスト構造を上方シフトさせる流れにある。
ペナン半導体クラスターの反応と免除議論
ペナンの半導体クラスターは、マレーシアの製造業GDPに大きく貢献する一大集積地で、Intel、AMD、Western Digital、Bosch、Infineonといった世界の主要半導体・電子部品企業が拠点を置く。SEMICON SEA 2026の場では、ペナン人材ギャップが12,000〜15,000人に達するとの試算が業界から提示され、特に先端パッケージング・テストエンジニアの不足が深刻化している。
業界団体(Malaysian Semiconductor Industry Association、MSIA)からは、半導体の高度職位については雇用パス給与基準の例外措置を設けるよう要望が出ている。理由は単純で、グローバルな半導体エンジニア市場の給与水準が地域ごとに大きく異なる中、マレーシアだけRM20,000基準を強行すると、台湾・韓国・シンガポールから人材を呼び込む採用競争力が落ちるためだ。
ただし、2026年5月時点で確定した免除リストは公表されていない。日系の半導体・電子部品メーカーは、免除が認められる前提で人事計画を作るのではなく、新基準が原則適用される前提で対応するのが安全だと考える。
多層レビー制度(MTLM)との連動
もう一つ、製造業に大きく影響するのが多層レビー制度(Multi-Tier Foreign Worker Levy Mechanism、MTLM)だ。これは外国人労働者の雇用主が支払うレビー(人頭税)を、外国人依存度に応じて段階的に重くする仕組みで、2026年内の本格導入が議論されている。製造業の現行レビーは1人当たり年RM1,850。MTLM完全施行までは、製造業の80対20雇用比率規制(現地80パーセント・外国人20パーセント上限)が引き続き猶予されているが、施行後はレビー率の引き上げと比率規制の同時適用が始まる見込みだ。
雇用パス給与倍増(基本的に管理職・専門職向け)とMTLM(一般労働者向け)は、対象職位こそ異なるものの、両方とも「外国人雇用全体のコスト構造を引き上げる」という方向性で一致している。ペナンのような半導体高密度クラスターでは外国人比率が比較的低いため、MTLMの直接的な影響は限定的だが、ジョホールやセランゴールの労働集約的な日系拠点(縫製、ゴム、家電組立、食品加工など)では、自動化投資の前倒しか追加コスト負担かを選ぶ局面が早晩訪れる。
日系製造業の対応設計
日系製造業が6月までに着手すべき対応は4つに整理できる。
第一に、駐在員給与の構成見直しだ。現状で基本給がRM20,000未満で運用されている拠点は、6月以降の更新申請で否認リスクが出る。住宅手当・通勤手当・現物給与を厚く積んで総報酬で基準をクリアしていた構成を、基本給比率を上げる方向に再設計する必要がある。出向元給与(日本本社負担分)と現地給与(マレーシア法人負担分)の按分も、新ルール下で再計算する。
第二に、後継者育成計画(successor development plan)の文書整備だ。カテゴリIIとIIIで必須化されるこの文書は、現地マレーシア人材を将来の後任として育てる具体的なステップ、訓練プログラム、評価基準、移管時期を明記する。形式的な書類で済ませるのではなく、実際に機能する育成計画として作り込まないと、更新時に審査が厳しくなる可能性がある。
第三に、自動化投資のROI再計算だ。MTLMが本格導入されれば、外国人依存度の高い工程ほどレビー負担が重くなる。これまでROIが微妙だった自動化案件も、レビー上昇分を将来コストとして織り込むと、投資回収期間が短くなる可能性がある。MTLMの具体的なレート表が公表されたタイミングが、再計算のトリガーになる。
第四に、現地ローカル人材の採用・育成の強化だ。雇用パス給与倍増と多層レビー制度のいずれも、政策意図は「外国人依存度を下げ、現地人材を育てる」という同じ方向を向いている。日系拠点の工場長候補・技術部長候補に、マレーシア人材のキャリアパスを描けるかどうかが、今後10年の競争力を左右すると考えられる。
注目すべき今後の動き
第一に、半導体高度職位の免除リストの公表動向だ。MSIAやペナン州政府からの要望が、入国管理局および人的資源省(KESUMA)でどのように扱われるかが、ペナンの日系電子部品メーカーの実務負担を左右する。免除が認められても、適用範囲(職種・年収・経験要件)の詳細によって、実際に救済される人数が大きく変わる。
第二に、MTLMの施行日と具体的なレート表の確定だ。当初2025年導入予定が1年延期され、2026年内の導入が議論されているが、5月時点で具体的な施行日は未確定。レート表が出れば、自動化投資のROI試算と現地雇用比率の目標設定が一気に動き出す。
第三に、ジョホール・シンガポール経済特区(JS-SEZ)での雇用パス運用だ。JS-SEZ内の対象投資には10年または15年の5パーセント法人税優遇があるが、雇用パスの給与基準は通常通り適用される。シンガポール隣接の労務メリットを活用しつつ、雇用パス基準の倍増にどう対応するかが、JS-SEZ進出を検討中の日系企業の判断軸の一つになる。
日本企業・ビジネスパーソンが意識すべき3つのポイント
第一に、駐在員給与の見直しは6月までに完了させる必要がある。基本給比率を上げる方向の再設計は、人事制度全体に影響するため、本社の人事部・税務部・法務部の合意形成を含めると意外に時間がかかる。住宅手当・通勤手当・賞与の扱いを変える場合、既存駐在員との個別合意も必要になるため、5月中の合意取り付けが現実的なデッドラインだと考える。
第二に、後継者育成計画は「形式的な書類」ではなく「機能する計画」として作る必要がある。カテゴリIIとIIIで必須化されるこの文書は、更新審査の精度が上がっていく可能性が高い。マレーシア人材の具体的な氏名、ポジション、育成時期、評価マイルストンを明記し、実際にOJT記録や研修受講記録と紐づけて運用するのが望ましい。
第三に、雇用パス基準の倍増とMTLMの組み合わせを「単発の規制対応」ではなく「現地ローカル人材戦略の転換点」として捉え直すべきだと考える。RMK-13が掲げる外国人依存度10パーセントという目標は、日系製造業にとっても他人事ではない。マレーシア人材のキャリアパス設計、給与体系の現地競争力、研修プログラムの再構築という3つを連動させる人事戦略が、今後10年の競争優位の源泉になる。

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