インドネシア通信デジタル相のMeutya Hafid氏とBank Indonesia総裁のPerry Warjiyo氏が主導する形で、インドネシアと中国の越境QRコード決済リンクが2026年5月1日に正式運用を開始した。インドネシア国内の約4,000万のQRIS加盟店で、中国からの訪問客がAlipayおよびUnionPayアプリでそのまま支払える。逆方向では、QRIS対応の電子マネー・銀行アプリが中国国内の約8,000万のAlipay/UnionPay QRを読み取れる。仕組みの裏側はAnt International(アント・グループの国際部門)のAlipay+とUnionPay Internationalが結んでいる。日系のフィンテック・観光・小売事業者にとって、ASEAN域内の決済主権の地殻変動を象徴する動きだ。
インドネシアの零細・中小事業者(UMKM、Usaha Mikro, Kecil dan Menengah)にとって、この越境リンクは「追加コストゼロで中国観光客を取り込める」決定的な転換点となる。インドネシアの大半のQRIS加盟店は屋台、家族経営の小売店、地方都市の食堂などで、既にQRISコードを店頭に貼っている。中国からの訪問客は、自分のAlipayまたはUnionPayアプリで既存のQRISコードを読み取るだけで人民元建てで支払いを完結できる。追加のハードウェア、システム改修、新規契約はいずれも不要だ。
2025年のインドネシアへの中国からの訪問客は134万人で、過去6年で最高水準にあった。バリ、ジャカルタ、ジョグジャカルタ、北スマトラ(メダン経由のトバ湖)などへの観光・ビジネス渡航が回復し、中国の対インドネシア直行便も拡充されている。134万人がアプリ決済でそのままUMKMに金を落とす構造は、地方経済の底上げに直結する。
2025年QRIS取扱
取扱件数
2026年目標
BIの「2026年QRIS目標」は8カ国接続・170億件・加盟店4,500万
Bank Indonesia(BI、インドネシア中央銀行)は2026年のQRIS(Quick Response Code Indonesian Standard)ターゲットを「取扱件数170億件、加盟店4,500万、接続国8カ国」と明示した。2025年実績は取扱件数155億1,000万件(前年比+148.5%)、取扱高1,420.66兆ルピア、利用者5,900万人だ。1年で取扱件数が約2.5倍に拡大しており、決済インフラとしての成熟度が一気に進んだ。
これに加え、2025年10月に導入した近接非接触型のQRIS Tap(NFC方式、スマートフォンを端末にかざすだけで決済する形式)が、2026年に入り月次成長+1,200%、累計50.8万件に到達した。スマトラ・ジャワ・バリの公共交通14州で展開され、東京の交通系ICカードのASEAN版を狙う構造に近い。スマートフォンが「鉄道の改札を通る」「タクシーで降りる」「コンビニで買う」すべてに使える社会基盤が、急速に形成されている。
越境接続は、中国に加え、シンガポール(PayNow)、タイ(PromptPay)、マレーシア(DuitNow)、韓国、日本、ベトナム、フィリピンと拡張中だ。中国との接続は人口規模と訪問客数の両方で最大級のインパクトを持つ。
Ant International(アント・インターナショナル)はAlibaba系のAnt Groupが2024年に設立した国際決済事業部門で、Alipay+というブランドで「複数のローカル決済アプリを一括接続する」プラットフォームを展開している。タイPromptPay、マレーシアTouch’n Go、シンガポールGCash、フィリピンGCash、韓国Kakao Pay等が既に接続済み。Alipay+が「ASEAN各国の決済アプリ⇔中国Alipay」の中継ハブとして機能することで、観光客が自国アプリを使ったまま国境を越える体験が標準化されつつある。
地政学的な含意:ドル離れと中国系決済ハブ
この越境リンクは、観光・小売の便利さの裏側で、ASEANの決済主権が「米ドル建てSWIFT」から「現地通貨建て・中国系決済ハブ経由」へ部分的にシフトする構造を示している。観光客の少額決済が積み上がる規模では、UnionPayとAlipayが事実上のクロスボーダー基盤の中核を担うようになる。BIは独自のステーブルコイン規制策定も並行して進めており、決済主権を守るための制度的措置を組み合わせている形だ。
日系決済事業者(JCB、ソニーペイメント、リクルートのAirPay等)にとっては、ASEAN域内のクロスボーダー決済で「Ant Internationalの中継ハブを使うか、独自にローカル決済事業者と直接接続するか」が、戦略的な分岐点となる。日本のVisaタッチ・Mastercardタッチが訪日中国人観光客に普及した経緯と比較すると、ASEANではAlipay+の「先行優位」が決定的になりつつある。
日系IT・観光・小売事業者への論点
日系IT事業者にとって、QRIS×Alipay+の連携は、東南アジア向けクロスボーダー決済プラットフォームの選定基準を変える。自社が独自にAlipay統合機能を実装するよりも、現地ローカル決済事業者(Indonesia: GoPay/DANA、Thailand: TrueMoney等)と連携してQRIS/PromptPay経由でAlipay+に接続する設計の方が、開発コストと運用コストの双方で有利になる。
日系観光事業者(HIS、JTB、ANA、JAL)にとっては、訪問客134万人規模の中国観光客がインドネシアで「自国アプリで決済」する局面に入ったことで、店頭で日本円・米ドル・人民元・ルピアの複雑な両替対応をする必要性が下がる。バリ・ジャカルタの日系ホテル・レストラン・土産物店は、QRIS対応端末を整備するだけで中国人観光客の決済を取り込める構造になった。
日系小売事業者(ユニクロ、無印良品、ニトリ、伊勢丹ジャカルタ)にとっては、QRIS Tapの公共交通連携が、都市部における「現金不要のショッピング体験」を作り出す。スマートフォン1台で電車・タクシー・店舗決済が完結する環境は、訪問客の購買行動を変える。在インドネシアの日系小売は、2026年下期までにQRIS Tapとの統合を完了させる価値があると考える。
注目すべき今後の動き
第一に、QRIS接続国の拡大計画だ。BIは2026年中に接続国を8カ国へ拡大する目標を掲げており、日本(JCB系の電子マネー、PayPay等)との接続も議題に上がっている。日本側との接続が実現すれば、訪日インドネシア観光客が日本国内でQRISで支払える環境が整う。
第二に、Project Nexus(BISが主導するASEAN5+インド即時送金網)との関係だ。QRISは小売決済、Project Nexusは銀行間送金が中心と棲み分けされる見込みだが、両者の連携が深まれば、ASEAN域内の決済・送金の両方が即時・低コストで完結する構造になる。
第三に、ステーブルコイン関連の制度動向だ。BIは決済手段としての暗号資産・ステーブルコイン利用を引き続き禁止しているが、業界提案を受けて「越境送金に限定したステーブルコイン利用」を評価中とされる。米ドル建てステーブルコイン経由で資金が動く可能性が出てくれば、Ant International系の人民元ハブとの競合構造が立ち上がる。
日本企業・ビジネスパーソンが意識すべき3つのポイント
第一に、ASEAN域内のクロスボーダー決済は「Ant InternationalのAlipay+を中継ハブとした人民元・現地通貨の即時連携」が標準形に固定化しつつある。日系決済事業者は、自社単独で各国ローカルアプリと接続する戦略から、Alipay+への接続あるいは類似ハブの構築という方向へ戦略を切り替える局面に入った。中期計画の前提を更新する必要がある。
第二に、訪問客134万人の中国観光客が「追加コストゼロでUMKMに現金を落とす」構造が定着することで、インドネシア地方経済の小売・飲食・宿泊の取引が活性化する。日系小売・観光企業のジャカルタ・バリ・スラバヤ拠点は、QRIS対応の整備状況を再点検し、未対応の店舗があれば2026年下期までに整備を完了させる価値がある。
第三に、QRIS Tapと公共交通連携の進展は、東京の交通系ICカード市場(Suica、PASMO等)の海外展開戦略にも示唆を与える。インドネシアの公共交通14州が既にQRIS Tap対応に動いており、ASEAN域内における「スマートフォン1台ですべて完結する社会基盤」のテンプレートがインドネシアで先に確立されつつある。日本のIC系決済事業者と公共交通事業者は、ASEAN展開戦略の再設計を始める時期だと考える。

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