【タイ企業紹介】Bitkub|タイ仮想通貨市場77%を握る——SCB買収破談から2026年SET上場へ向かう若手創業者の物語

2022年8月25日、タイの大手商業銀行Siam Commercial Bank(SCB)が、約9カ月前に発表した「タイ最大の仮想通貨取引所Bitkubの株式69%を5億ドル(約700億円)で買収する」という契約を撤回した。タイ金融史上最大級のフィンテック買収案件は、SEC(タイ証券取引委員会)の制裁とBitkub内部の規制違反が積み重なった結果、ご破算となった。

それから3年余りが経った2026年初頭。当時の買収案件で売り手側だったBitkub創業者Jirayut Srupsrisopa——タイの仮想通貨業界で「Topp(トップ)」の通称で知られる若手創業者——は、自社をタイ証券取引所(SET)に直接上場させる計画を進めている。評価額の上限は30億ドル。2022年に提示された買収額の6倍だ。SCBが撤退して以来、Bitkubは国内シェアを77%まで引き上げ、独立路線で勝ち抜く道を選んだ。

77%
Bitkubが2023年末時点で握るタイ国内仮想通貨取引所市場のシェア(同国SECライセンス4社合計の比率)
目次

Oxford大で経済学を学んだ若者が、ビットコインに賭けた

Jirayut Srupsrisopa(ジラユット・スラップスリソパ、通称Topp)は1989年頃、バンコクの中流家庭に生まれた。英国マンチェスター大学で経済科学の学士号を取得し、2011年から2013年までOxford大学で経済学の修士課程(MPhil)を修めた。卒業後はロンドンとバンコクで投資銀行員、金融コンサルタント、タイ中央銀行職員といったキャリアを歩んだ。順調なエリート路線だった。

転機は2013年末、彼が学生時代から関心を持っていたビットコインに改めて目を向けたときに訪れた。当時1ビットコインは100ドル台で、世界の主要金融機関はまだ仮想通貨を「投機商品」として遠ざけていた。Toppは「タイにはまだ本格的なビットコイン取引基盤がない」と気づき、2014年4月に最初の事業Coins.co.thを立ち上げた。これはタイ最初の本格的なビットコインウォレット・取引サービスだった。

Coins.co.thは順調に成長し、2017年頃にはタイ国内の仮想通貨取引層から強い支持を得た。しかし2017年末、Toppは事業を売却する決断をする。買い手はインドネシアのGojek(現GoTo)だった。「自分はもう一度ゼロから作りたい」という起業家としての欲求と、「規制環境が整いつつあるタイ国内で、より大きな取引所を構想したい」という戦略判断の両方があったとされる。

2018年、ToppはパートナーのAtthakrit Chimplapibulと共にBitkubを設立した。タイ金融当局が2018年5月に「デジタル資産事業法(Digital Asset Business Decree)」を施行し、仮想通貨取引所にSECライセンス取得を義務付けたタイミングを狙っていた。Bitkubはこの新制度下で最初期にライセンスを取得した5社のうちの1社になり、規制適合の優位性を確保した。

事業の伸びは劇的だった。初年度2018年の売上は300万バーツ(約1,300万円)。それが2019年には3,000万バーツ、2020年には3億バーツ、2021年の第3四半期までで32.8億バーツへと、年率10倍ペースで急拡大した。世界的なビットコイン高騰局面(2021年に1ビットコイン6万ドル超)の追い風があったとはいえ、ライセンスの希少性、UIの使いやすさ、タイ語サポートの徹底が国内ユーザーから支持された。2021年中にBitkubはタイのユニコーン企業となり、Toppはタイのテック起業家ランキングの常連となった。

Bitkubの歩み

SCB買収破談——タイ金融史を揺らした9カ月の物語

2021年11月、Bitkubに大きな転機が訪れた。タイ最大級の商業銀行Siam Commercial Bank(SCB)の親会社SCBXが、Bitkub Online株式69%を1.78億バーツ(約5億ドル)で買収すると発表したのだ。タイ金融史上最大級のフィンテック買収案件として、業界に衝撃が走った。SCBはこの取引により、デジタル資産分野での圧倒的なポジションを獲得する計画だった。

しかし2022年に入り、雲行きが怪しくなる。3月、タイ中央銀行(Bank of Thailand)が「商業銀行のデジタル資産事業への投資上限を資本の3%未満にする」という新規則を打ち出した。SCB-Bitkub取引はSCBの資本の約5%に相当しており、規制上限を超える計算だった。

同時期にタイSECは、Bitkubに対して複数の制裁を発動した。6月30日、SECは「取引量の虚偽報告」を理由にBitkubに民事制裁を課した。同月、Bitkub独自トークン「KUB」の上場基準違反も指摘された。さらに、2019年に発生した取引操作疑惑について、Bitkubと幹部2名に対し総額2,400万バーツの罰金が課された。

これらの問題が積み重なり、2022年8月25日、SCBXは買収中止を正式発表した。SCBXの声明は「Bitkubが現在、タイSECの勧告と指令に従って様々な問題を解決中であり、解決の時間軸が不確定である」というものだった。タイ金融史上最大の買収案件は、契約締結から9カ月でご破算となった。

Bitkub Capital Groupの収益構成(連結ベース)

SCBに買収されていれば、Bitkubは大手銀行の子会社として「安全な」道を歩んだはずだ。しかし破談を契機に、Toppは独立路線での成長を選んだ。事業構造を見直し、Bitkub Onlineを中核としつつ、関連事業を持株会社Bitkub Capital Groupの傘下に整理した。

現在のBitkub Capital Groupの収益構成は、Bitkub Online(仮想通貨取引所)が約80%、その他事業(Bitkub Academy=暗号資産教育、Bitkub Chain=独自ブロックチェーン、Bitkub NFT等)が約20%という構造だ。取引所事業に強く依存しており、仮想通貨価格の動向が直接的に収益に影響する。

2022〜2023年の「仮想通貨の冬」局面では取引量が大幅に減少し、Bitkubも他の取引所と同様に厳しい時期を経験した。しかし2024年以降のビットコイン価格回復、米国スポットETF承認の追い風で、Bitkubの日次取引量は約3,000万ドルに回復した。

収益安定化のため、Bitkubは取引手数料への依存を下げる取り組みも進めている。Bitkub Academyの有料コースは累計受講者数が数十万人規模に達し、Bitkub Chainは独自トークンKUBを基盤にNFT・DeFiサービスを展開する。これら「取引所以外」の事業は、上場時のストーリー上、「単なる取引所ではなくWeb3エコシステム」というポジショニングを支える重要な要素になっている。

従業員数は約500名、本社はバンコク中心部のサーミット・タワー。タイ国内の仮想通貨ホルダーの約半数(数百万人)がBitkubアプリを使っているとされる。ユーザー1人あたりの平均取引額が大きいわけではないが、絶対ユーザー数の多さがBitkubのモートを形成している。

タイ仮想通貨戦争——4社が並ぶライセンス市場

タイの仮想通貨取引所市場は、SEC(証券取引委員会)が発行する「デジタル資産取引所ライセンス」を保有する事業者だけが運営できる規制された市場だ。2026年初頭時点でこのライセンスを保持するのは9社だが、取引量の大半は上位4社に集中している。

タイ国内仮想通貨取引所の主要4社(2023年12月時点)

圧倒的首位のBitkubは、2023年12月時点で市場シェア77%、2022年の年間取引量は286億ドルに達した。タイ語UI、現地銀行との連携、低い手数料(取引額の0.25%)が国内ユーザーから支持されている。

2位以下は規模が大きく離れている。Zipmexはシンガポール本社のタイ進出型取引所で、2021年には2位を確保したが、2022年7月に流動性危機で出金を一時停止。経営難から再建中で、現在は規模が大幅に縮小している。

Satang Proは2023年10月、タイ大手商業銀行Kasikornbank(KBANK)の傘下に入った。KBANKは「SCBがBitkub買収に失敗した後の、もう1つの銀行による仮想通貨取引所支配の試み」と業界で見られている。Satangは小規模ながら、KBANKの預金顧客との連携で成長余地がある。

注目すべきは2024年1月に参入したBinance Thailandだ。世界最大手のBinanceがタイの大手エネルギー会社Gulf Energy Developmentと組み、Gulf Binance Co.として現地法人を設立した。Gulfがタイのエスタブリッシュ層との関係性を提供し、Binanceがグローバル技術と流動性を提供する。これがBitkubにとって2026年最大の競争脅威となる可能性が高い。

規制環境も急速に変化している。タイSECは2024年以降、海外無認可取引所(Binance Globalや海外Bybit)のIPアクセスをブロックするなど、国内ライセンス保有者に有利な政策を強化している。これはBitkubのような既存ライセンス保持者にとって追い風だが、Binance Thailandのようなライセンス取得済みの海外勢にとっても同じ利点となる。

3つの強みと、3つの規制リスク

Bitkubの強みは、第1にライセンスと先行者優位の組み合わせだ。タイSECライセンスは厳格な要件があり、新規参入が容易ではない。Bitkubは2018年の法整備直後に取得した5社のうちの1社で、8年の運営実績がある。ライセンス保有期間そのものが信頼の根拠になっている。

第2の強みは、Toppの個人ブランドだ。Toppはタイ国内のテック・ビジネスメディアでの露出が極めて多く、「タイの仮想通貨業界の顔」として認知されている。FacebookとX(旧Twitter)で合計200万人以上のフォロワーを持ち、自身の言葉でBitkubの方向性や仮想通貨業界の動向を発信する。これは新規参入企業が短期間で真似できないアセットだ。

第3の強みは、タイ語ファースト設計のサービスだ。Binance ThailandやUpbitなどの海外勢は英語インターフェイスを翻訳したUIを使うことが多いが、Bitkubは最初から「タイ人ユーザーのためのタイ語UI」で設計されている。地方都市・中所得層へのリーチで他社を引き離している。

一方で課題も明確だ。第1にSEC規制リスクの継続。2022年の制裁経験から、Bitkubは規制対応に最大限の注意を払っているが、業界全体の規制が締まる局面では取引手数料の引き下げ要求や上場銘柄の制限といった逆風が起きる可能性がある。

第2に、Binance Thailand+Gulf連合との競争激化。Gulfはタイ最大級の電力・インフラ企業で、政府・規制当局との関係性が深い。BitkubはトップのToppがメディアやSNSで影響力を持つが、政治・規制レベルでの影響力ではGulf連合に劣るとの見方がある。

第3に、IPO実現の不確実性。タイSETの上場審査は厳格で、過去のSEC制裁歴がある企業の上場は通常容易ではない。Bitkubが2026年中に上場まで漕ぎ着けられるか、評価額30億ドルが実現するかは、規制当局との関係性次第だ。

2026年は「IPO実現の年」になるか

Bitkubの2026年最大の節目は、タイ証券取引所(SET)上場の実現可否だ。Toppは2024年4月のCoinDesk取材で「評価額は30億ドルに達する可能性がある」と述べ、財務アドバイザーの選定を進めていることを明かした。2025年中にIPO申請、2026年中に上場、というスケジュールが視野に入っている。

上場が実現すれば、Bitkubは世界的にも稀な「主要仮想通貨取引所が地元証券取引所に上場する事例」となる。米国Coinbaseが2021年にNasdaq直接上場、シンガポールIndependent Reserveが2024年にASX上場準備など、グローバルでも「規制された仮想通貨取引所の伝統市場上場」は最近のトレンドだ。タイがこの流れに乗れば、ASEANで初の事例となる。

もう1つの注目点は、2024年に参入したBinance Thailandとの本格競争だ。Binance Thailandは2025年中に正式サービス開始から1年余りが経過し、2026年は「フルパワー」で市場攻略に向かう年となる。Bitkubは「先行者+独立企業+IPO実現」の3本柱で対抗する形だが、Binanceの世界的流動性・グローバル銘柄ラインナップに対抗できるかが試される。

仮想通貨価格そのものの動向もBitkubの命運を左右する。2024〜2025年のビットコイン強気相場が2026年も続けば追い風だが、再び弱気相場に転じれば取引量減少で収益が直撃される構造は2022年から変わっていない。

日本企業・ビジネスパーソン向け なるほどポイント

Bitkubの物語を読み解くと、ASEAN市場のフィンテックと規制の関係について示唆が見えてくる。

  1. ASEAN各国の「規制ライセンス」は、新規参入を阻む最強の参入障壁になる。タイSECライセンスを2018年に取得したBitkubが、それ以降の参入者を抑え込んでいる構造は、銀行業や保険業に近い「規制レント(regulatory rent)」の典型だ。ASEAN進出を検討する日系フィンテックも、現地ライセンスの取得タイミングが事業の運命を決める。
  2. 大手銀行による買収は、規制リスクで簡単に破綻する。SCBのBitkub買収は契約締結9カ月後に破談した。タイ中央銀行の3%ルール導入、SECのBitkubへの制裁という2つの「規制ショック」が原因だった。日系企業がASEANでフィンテック企業を買収する際、規制環境の急変リスクを織り込む必要がある。
  3. 「個人ブランド型の経営者」がASEANスタートアップでは決定的に重要だ。Toppのようにメディア・SNSで顔の見える経営者は、規制当局・投資家・ユーザーの3者に同時にメッセージを送る装置になっている。日系企業が現地法人を立てる際、無個性な日本人駐在員を社長に据えるよりも、現地で発信力のある経営者を立てる方が、ブランド構築の速度が大きく違う。

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