2019年8月、クアラルンプール郊外のショップロットの一角に、400平方フィート(約37平方メートル)のコーヒースタンドが開業した。創業したのは、当時30代前半のVenon TianとIan Chuaの2人。看板に書かれた店名は「ZUS Coffee」だった。スターバックスやコーヒービーンが1杯18〜25リンギット(500〜700円)で売る世界に、彼らは1杯9〜13リンギット(250〜360円)という「半額帯」のスペシャルティ・コーヒーを持ち込んだ。
それから7年後の2026年初頭、ZUS Coffeeはマレーシアで850店、東南アジア全体で1,000店を超える店舗網を構築した。マレーシア国内では2025年についにスターバックスを店舗数で抜き去り、国内首位に立った。さらに2026年1月にはタイ・バンコクへ進出、年内には累計1,300店舗、Bursa Malaysia Main Marketへの株式上場(目標時価総額RM6十億)を見据えている。創業からわずか7年でこの規模に到達したコーヒーチェーンは、東南アジア発で類例がほぼない。
洗濯機チェーンから始まった——2人の起業家のキャリア
ZUS Coffeeの創業者の経歴は、東南アジアの起業家としては典型的だが個性が強い。共同創業者のVenon Tianは、英Northumbria大学で法学(LLB Hons)、マレーシアHELP大学でMBAを取得した「法律+ビジネス」の二刀流人材だ。しかし弁護士の道を選ばず、卒業直後に飛び込んだのはeコマースの世界だった。リジェクト品(売れ残り在庫)を仕入れて eBay UKで転売する事業を始め、「当時最も簡単にお金を稼げる方法だった」と後に振り返っている。
転売事業で資本を作った後、Tianが次に手を出したのはコイン式コインランドリーのチェーン事業だった。マレーシア国内で50〜60店舗を自ら運営し、運営オペレーション・店舗管理・人材育成を一通り経験した。「無人運営の小型店舗を多数横展開する」という事業モデルを、洗濯機ビジネスで実地に学んだ。これが後にZUS Coffeeの店舗運営の原型となる。
もう1人の創業者Ian Chuaは、スタートアップとIT領域のバックグラウンドを持つ。テクノロジー・マーケティング・デジタル基盤の構築が得意分野で、Tianの「オペレーション」とChuaの「テクノロジー」が組み合わされたのがZUS Coffeeの基盤になった。
2人がコーヒー事業を始めようと決めたのは2019年初頭。マレーシアのコーヒー市場は当時、スターバックス(プレミアム)と街角の伝統的なkopitiam(コーヒーショップ)という二極構造で、その中間——「スペシャルティ品質を屋台価格で」という層がほぼ空白だった。CoffeeShop CompanyやKenangan Kopi(インドネシアのKopi Kenangan)が同様の戦略でASEAN各国で成功していた時期で、TianとChuaは「マレーシアでこのモデルを完成させる」と判断した。
2019年8月、初号店をスバン地区にオープン。座席はなくテイクアウトとデリバリーのみ。最初から「アプリ専用注文」というコンセプトで、店舗運営の前に独自のモバイル注文・支払いアプリを完成させていた。この「テック先行」のアプローチが、ZUSを他のコーヒーチェーンと根本的に分けた。多くの東南アジアのコーヒーチェーンが店舗ありきでアプリを後から付けたのに対し、ZUSはアプリありきで店舗を後から付けた。
創業からわずか4カ月後の2020年3月、COVID-19パンデミックでマレーシアが全国封鎖に入った。スターバックスを含む既存のカフェチェーンは店内営業ができず大打撃を受けたが、ZUSは「アプリ注文+ピックアップ/デリバリー」という事業モデルが時代に完璧にフィットした。封鎖期間中もコーヒーを定期購入する顧客層を獲得し、創業1年で30店舗、3年で500店舗、5年で1,000店舗超という驚異的なスピードで成長していった。
アプリ起点モデルが生むユニットエコノミクス——ZUSの事業構造
ZUS Coffeeのビジネスモデルは、表面的には「中低価格帯のスペシャルティ・コーヒー」だが、その下にあるのは「テクノロジー起点の超効率店舗網」という構造だ。1号店からアプリ専用注文・モバイル決済を前提に設計されたため、各店舗はカウンター・調理スペース・受取台だけで構成される。座席はゼロまたは数席のみ。1店舗あたりの平均面積は40〜60平方メートルで、スターバックス標準店(150〜200平方メートル)の3分の1以下だ。
これが家賃と内装コストを劇的に下げ、客単価1杯12リンギット(約330円)でも黒字化できるユニットエコノミクスを実現した。アプリ経由の事前注文がほぼ全てで、レジ対応の人員も不要。1店舗3〜4名のシフトで運営可能だ。マレーシアの店舗オーナーシップ構造としては、約80%がフランチャイズで、20%が直営。フランチャイジーは初期投資30〜40万リンギット(約850〜1,100万円)で出店でき、これがマレーシア国内で「コーヒーフランチャイズ」が爆発的に普及した要因だ。
地域別の店舗構成を見ると、ZUS Coffeeの「マレーシア依存度」が依然として高いことが分かる。
2026年初頭時点の店舗構成は、マレーシア国内850店(約85%)、フィリピン70店(約7%)、その他海外(タイ・シンガポール・ブルネイ・パキスタン・モロッコ)を合わせて約80店(約8%)。海外展開は2024年から本格化したばかりで、収益への寄与はまだ限定的だ。それでも2025年第3四半期にマレーシア国外事業全体としても黒字化したと報じられており、海外進出モデルとしては成功軌道に乗りつつある。
収益モデルの中核は店舗売上だが、それを支えているのが自社開発のモバイルアプリだ。月間アクティブユーザーは推定400万人超とされ、注文・決済・ロイヤルティポイント・新商品プロモーションがアプリ経由で完結する。これにより1顧客あたりの来店頻度・購買額・嗜好データが蓄積され、新商品開発と店舗立地の判断に活用されている。スターバックスやCoffee Bean & Tea Leafがメンバーシップアプリを後付けで導入したのとは対照的に、ZUSはアプリそのものが顧客接点の中核だ。
2024年9月、ZUS Coffeeは大型の資金調達を実施した。シンガポール本社の私募ファンドKV Asia Capitalが主導し、マレーシアの公務員年金基金KWAP(Kumpulan Wang Persaraan)、インドネシアの大手食品コングロマリットKapal Api Groupが参加するシリーズB相当のラウンドで、調達額はRM250百万(約57百万ドル)。Kapal ApiはインドネシアでのZUS進出のパートナーとして戦略的に重要な投資家だ。同社のインドネシア国内コーヒー流通網を活用して、Kopi Kenangan等の現地強者がひしめくインドネシア市場への参入の難易度を下げる狙いがある。
2026年現在、ZUS Coffeeの最大の経営課題は「店舗数の急拡大」と「収益性の維持」の両立だ。年間300〜400店舗のペースで出店しているが、同じペースでフランチャイジーの質を維持・新規市場での認知獲得・サプライチェーンの構築を行う必要がある。Tian自身がインタビューで「私たちは規律ある成長を最優先にする」と繰り返し述べているのは、過度な拡張で失敗したインドネシアKopi Kenanganの2022年の事例(過剰拡張で赤字、撤退)を意識しての発言とも見られる。
スターバックスを抜いたマレーシア——コーヒー市場の地殻変動
マレーシアのコーヒー市場は、過去5年で構造が一変した。2020年頃まではスターバックスとCoffee Bean & Tea Leafという米系プレミアム勢が大都市部の高所得層を独占し、地元の特殊飲料勢はTealive(ボバ茶チェーン)が主導していた。コーヒーの中価格帯——若年中間層が日常使いできる価格と品質——という空白を、ZUS Coffeeが完全に埋めた格好だ。
2025年時点でのマレーシア国内チェーン店舗数を比較すると、ZUS Coffeeが850店で首位。続いてTealive(ボバ茶)が800店超で2位、米系Starbucks Malaysiaが430店で3位、Coffee Bean & Tea Leafが100店程度で4位という構図だ。コーヒー専業に絞れば、ZUS Coffeeはスターバックスの約2倍の店舗数を持ち、これがマレーシア国内消費市場の「世代交代」の象徴になっている。
競合構造の特徴は、価格帯の二極化が進んでいる点だ。スターバックスとCoffee Bean & Tea Leafは「プレミアム+座席空間」を維持しており、1杯18〜25リンギット帯で都市部のオフィスワーカー・観光客を狙う。ZUSとTealiveは「テイクアウト+アプリ+低価格」で、若年層と日常使いを狙う。両者は同じ「コーヒーを飲む顧客」を奪い合っているのではなく、異なる利用シーンを開拓している側面が強い。
Coffee Bean & Tea Leafは2019年にフィリピンのJollibee Foods Corporation(前回フィリピン企業紹介で取り上げた外食大手)が買収しており、マレーシア事業はJollibee傘下の世界戦略の一部として運営されている。Jollibeeが2025年にZUSの直接競合となるJollibee傘下のZUS Coffee対抗ブランドを立ち上げる可能性も業界では取り沙汰されている。
注目すべきは、ZUS CoffeeとインドネシアのKopi Kenanganの位置関係だ。両者ともASEAN域内で同時期に成長した「ASEAN初・F&Bユニコーン候補」だが、ZUSはマレーシア基盤、Kopi Kenanganはインドネシア基盤。両社が2026〜2027年に相手国市場に本格進出する局面が予想される。ZUSのKapal Api提携によるインドネシア進出と、Kopi KenanganのGCC・台湾進出は、東南アジアのコーヒー戦争が「自国独占」から「域内交差」のフェーズに入る合図だ。
3つの強みと、IPO実現までに解決すべき3つの課題
ZUS Coffeeの強みは、第1にテクノロジー起点の店舗運営モデルだ。アプリ専用注文・モバイル決済・データ駆動の店舗運営は、コーヒーチェーンとしては東南アジアで最も洗練されたシステムだ。スターバックス(メンバーシップアプリ後付け)、Coffee Bean & Tea Leaf(アプリ不在)、Tealive(決済アプリ程度)と比べて、技術的な開発投資が突出している。これがユニットエコノミクスの優位(小型店・低人員)を生んでいる。
第2の強みは、創業者Venon TianとIan Chuaの「経営者2人体制」の安定性だ。Tianがオペレーションと事業判断、Chuaがテクノロジーとマーケティングという役割分担が明確で、東南アジア企業によくある「創業者1人への過度な依存」が回避されている。両者とも30代後半(2026年時点)で、今後10〜15年は経営継続が見込まれる。
第3の強みは、戦略的株主構成だ。KV Asia Capital(シンガポールPE)、KWAP(マレーシア公務員年金)、Kapal Api Group(インドネシアFMCG)という3者構成は、それぞれ「金融規律」「現地政治・規制関係」「インドネシア市場アクセス」を提供する。これは銀行口座開設の容易さ、政府との交渉、海外進出のパートナーシップという3つの異なる経営課題に対する「保険」として機能している。
一方で課題も明確だ。第1にIPO実現タイミングの不確実性。Maybank・CIMB・RHBという3大マレーシア投資銀行を起用しているが、Q4 2026の上場は「不確実」と現地メディアは報じている。Bursa Malaysiaの上場審査が想定より時間がかかっており、目標時価総額RM6十億(約1,800億円)が実現できるかは市場環境次第だ。
第2に、フランチャイジーの質的管理。年間300〜400店舗のペースで新規出店する以上、フランチャイジー候補の選定・教育・品質管理が経営の生命線になる。フィリピン進出の70店舗で「品質のばらつき」が一部報告されており、海外展開での同様の課題が顕在化する可能性がある。
第3に、競合との価格競争激化。Kopi Kenangan(インドネシア)、Tomoro Coffee(中国系)、Luckin Coffee(中国本土から東南アジア進出を模索)など、同価格帯の中国系・域内競合が増えている。1杯12リンギットという価格戦略を維持できるか、それともプレミアム化へのリポジショニングが必要になるかは、今後3年の経営判断の核心だ。
2026年は「タイ進出本格化」と「IPO実現」の年
ZUS Coffeeの2026年経営アジェンダは2つに集約される。第1がタイ市場の本格立ち上げ。2026年1月30日にバンコクで1号店をオープンし、年内に50店舗を目指す。タイのコーヒー市場は世界5,000店超のCafé Amazon(PTT OR運営、前回タイ企業紹介で取り上げた)が圧倒的シェアを持つが、Café Amazonの大半はガソリンスタンド併設で、都市部の若年層向け店舗網は意外と層が薄い。ZUSはまさにこの「都市部・若年層」のニッチを狙う。
第2がIPO実現だ。Maybank・CIMB・RHBの3大投資銀行を起用してBursa Malaysia Main Marketへの上場準備が進んでいる。市場関係者の見方では、当初Q4 2026とされた上場タイミングは2027年Q1〜Q2にずれ込む可能性が高い。理由は、急成長中の事業価値の評価とフランチャイジー収益の透明性確保に時間を要するためだ。目標時価総額RM6十億(約1,800億円)は、年商RM1.5〜2十億(推定)に対しPSR3〜4倍水準で、東南アジアの成長型F&B銘柄としては妥当な評価レンジに収まる。
もう1つの注目点はインドネシア進出の本格化だ。Kapal Api Groupとの戦略連携を背景に、2026年中にジャカルタ・スラバヤ等の主要都市で初期展開を開始する見通し。インドネシア市場はKopi Kenangan(1,324店)、Janji Jiwa(1,100店)、Tomoro Coffee(650店)が既に三つ巴の競争を繰り広げているレッドオーシャンだが、Kapal Apiの流通網がZUSの参入障壁を一部解消する。マレーシア発のコーヒーチェーンが、インドネシアという最大の東南アジア市場で勝てるかどうか——これは2026〜2027年の最大の試金石になる。
日本企業・ビジネスパーソン向け なるほどポイント
ZUS Coffeeの物語を読み解くと、東南アジアの消費市場と新興F&B企業の急成長メカニズムについて示唆が見える。
- 東南アジアのF&Bでは「アプリ先行・店舗後付け」のモデルが圧倒的に強い。スターバックスがメンバーシップアプリを後付けで導入したのに対し、ZUSは2019年の創業時点でアプリ専用注文を前提に店舗を設計した。これがユニットエコノミクスの差を生み、結果としてマレーシア市場でスターバックスを抜くまでに至った。日系F&B企業がASEANで展開する際、店舗デザイン先行ではなくアプリ+データ基盤先行で考える必要がある。
- 創業者の経歴は「業界経験者」よりも「異業種・実務経験者」の方が成功するパターンがある。Venon Tianはコインランドリー50店運営で「無人運営の小型店多数横展開」というモデルを学び、それをコーヒーチェーンに適用した。日系企業が現地法人を立てる際、「業界経験のあるプロ経営者」だけでなく、「異業種で同じビジネスモデルを実践した経営者」を発掘する目を持つと選択肢が広がる。
- 東南アジアのF&Bユニコーン候補は「域内交差」のフェーズに入った。ZUS Coffee(マレーシア発)がインドネシアへ、Kopi Kenangan(インドネシア発)が台湾・GCCへ、Café Amazon(タイ発)が中東へ。「自国独占」の時代は終わり、ASEAN域内および周辺地域での競争が本格化する。日系企業がASEAN進出する際、「単一国市場の競合分析」だけでなく「域内交差を含む3〜5年後の競合マップ」を描く必要がある。
本記事の主な出典
- Tatler Asia「Tatler Founder Stories: Venon Tian of ZUS Coffee」
- The Edge Malaysia「ZUS Coffee operator moving towards Main Market listing」
- DealStreetAsia「Malaysia’s ZUS Coffee secures 53百万ドル in KV Asia-led funding」
- Malay Mail「ZUS Coffee brews global expansion with Pakistan and Morocco entry」(2025年9月)
- Wikipedia「Zus Coffee」
- World Coffee Portal「Malaysia’s ZUS Coffee gearing up for launches in Thailand and Indonesia」

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