マルコス大統領が5月19日、豚肉の年間輸入枠を従来の約4倍に引き上げる大統領令116号(EO 116)に署名した。フィリピンの食卓と飲食業を支える豚肉は、2019年のASF(アフリカ豚熱=豚に感染するウイルス性の病気で、致死率はほぼ100%。人には感染しない)の大流行以降、慢性的な供給不足が続いてきた。マニラの市場でリエンポ(豚バラ肉)1キロ480ペソ(約1,200円)まで高騰した価格は、果たしてこの決定で下がるのか。飲食店や小売業を営むオーナーにとって、仕入れの構造がどう変わるのかを整理した。
EO 116の中身——何がどう変わったか
大統領令116号の核心は、豚肉のMAV(最低輸入数量=WTOの取り決めに基づき、各国が低い関税率で受け入れる輸入数量のこと)を年間54,210メトリックトンから204,210メトリックトンへ、約4倍に拡大したことだ。この枠内で輸入される豚肉には15%の関税が適用される。枠を超えた分にも25%と、通常よりも低い税率が設定された。期間は2年間。
注目すべきは、増加分150,000メトリックトンのうち120,000メトリックトンが「Kadiwa ng Pangulo(カディワ・ン・パングロ)」——政府が運営する食品直売プログラム——に割り当てられた点だ。残り30,000メトリックトンは食品加工業者向けとなる。政府が輸入した豚肉をKadiwaの直売所やFood Terminal Inc.(FTI)を通じて市場に流す仕組みで、通常の民間輸入とは流通経路が異なる。
WTO(世界貿易機関)の取り決めに基づき、各国が最低限受け入れる輸入数量のこと。
枠内の輸入品には低い関税率(今回は15%)が適用される。枠を超えた輸入には高い関税率(25%)がかかる。
フィリピンの豚肉MAVは従来54,210メトリックトンだったが、EO 116で204,210メトリックトンに引き上げられた。
ASFが壊した養豚業——7年間で500万頭が消えた
なぜ輸入枠をここまで広げなければならないのか。原因は2019年7月に遡る。マニラ首都圏に隣接するリサール州とブラカン州で、ASFが初めて確認された。致死率がほぼ100%のこのウイルスは、裏庭で数頭を飼う小規模農家の豚から爆発的に広がった。残飯を餌として与える「スウィルフィーディング」の慣行がウイルスの温床になったとされる。
感染は瞬く間に全国へ拡大した。フィリピン全82州のうち76州にASFが広がり、2019年の時点で1,270万頭いた養豚頭数は、2025年には875万頭まで落ち込んだ。約500万頭が死亡または淘汰された計算になる。経済損失は累計約2,000億ペソ(約5,000億円)に達した。
アフリカ豚熱は豚に感染するウイルス性の病気で、致死率はほぼ100%。人には感染しない。
フィリピンでは2019年7月にリサール州とブラカン州で初めて確認され、その後82州のうち76州に拡大した。
ワクチンは2023年に承認されたが、普及には時間がかかっている。
とりわけ打撃が大きかったのは、養豚農家の7割を占める小規模農家だった。バイオセキュリティ(病原体の侵入を防ぐための衛生管理体制)の設備を持たない裏庭農家は、感染を防ぐ術がなかった。政府は「1-7-10方式」(感染確認から半径1km以内の殺処分、7km以内の監視、10km以内のモニタリング)で封じ込めを図ったが、養豚頭数の回復は遅い。政府は2028年までにASF前の水準(年間232万メトリックトン)への復帰を目指しているが、そのためには毎年6.6%の生産増が必要で、予算も今後4年間で少なくとも1,100億ペソ(約2,750億円)と見積もられている。
「小売は高く、農家は赤字」——価格の二重構造
EO 116が解決を目指す問題は「豚肉の供給不足」だが、現場を見ると事態はもう少し複雑だ。
マニラ首都圏の市場で、リエンポ(豚バラ肉)は1キロ480ペソ(約1,200円)前後、カシム(肩肉)は330ペソ(約825円)前後で取引されている。ASF前の2018年にはカシムが220ペソ(約550円)程度だったから、7年間で約80%の値上がりだ。レチョン(丸焼きの豚)やシシグ(豚の頬肉と耳の鉄板焼き)、アドボ(酢と醤油の煮込み)を看板料理にする飲食店にとって、この価格上昇は利益率を直撃してきた。
小売価格
(赤字ライン以下)
小売価格(2018年)
一方、養豚農家から見ると風景はまったく異なる。農家が卸業者に出荷する価格(ファームゲートプライス)は、1キロ180ペソ(約450円)前後まで下がっている。豚1頭を育てるコスト(飼料代、ワクチン代、人件費など)の損益分岐点は185ペソ/kgとされているから、農家は出荷するたびに赤字を出している状況だ。
小売では480ペソ、農家の出荷では180ペソ——この300ペソの差はどこへ消えているのか。中間流通(集荷業者、冷凍倉庫、卸売市場、小売業者)がマージンを吸収している構造が指摘されている。つまり、輸入量を増やして供給を増やしても、中間流通が価格を下げないまま利幅を維持すれば、消費者や飲食店の仕入れ値にはすぐに反映されない可能性がある。
ティウ・ラウレル農業大臣自身がこの矛盾を認めている点は重要だ。輸入は増えている。しかし小売価格は高止まりし、農家は赤字に追い込まれている。増えた利益は農家にも消費者にも届かず、流通網の中で吸収されている。
ブラジル産が半分を占める——輸入元の変化
フィリピンの豚肉輸入は、この数年で量も構成も大きく変わった。2025年の豚肉輸入量は851,760メトリックトンに達し、過去最高を更新した。2026年の消費量は推計173万メトリックトン。国内生産(98万メトリックトン)との差の約75万メトリックトンを輸入で埋める計算になる。
輸入元で圧倒的な存在感を見せているのがブラジルだ。数量ベースで50%以上を占め、前年比で6割増という勢いで伸びている。価格競争力が最大の武器で、ブラジル産冷凍豚肉は他国産に比べて割安とされる。アメリカが約16%、スペインが約10%、カナダが約9%と続く。ドイツはASF発生国のため2019年以降、フィリピン市場から事実上締め出されている。
飲食店オーナーにとって、この輸入構造の変化は「仕入れ先の選択肢が広がった」という意味を持つ。Kadiwaの直売所では政府が調達した輸入肉が市場価格より安く販売されるケースがあり、特にリエンポやカシムの大量仕入れには利用価値がある。ただし、Kadiwa店舗は首都圏でも数が限られており、営業時間や品揃えにばらつきがある点は現場で確認が必要だ。
BSPの臨時利上げ検討——借入コストにもう一つの圧力
食材コストの問題に加え、もう一つ飲食店や小売業オーナーの資金繰りに影響しそうな動きがある。フィリピン中央銀行(BSP=バンコ・セントラル・ン・ピリピナス)のレモロナ総裁が5月22日、定例会合(6月18日)を待たずに臨時の利上げを検討していると発言した。
背景には4月のインフレ率が7.2%に急騰した事情がある。3月の4.1%から一気に3ポイント以上跳ね上がった。中東紛争に起因する原油高が食品や輸送コストを押し上げている。BSPは4月にすでに政策金利を4.25%から4.50%に引き上げたが、レモロナ総裁は「十分ではなかった」と述べた。
中小企業への影響はどの程度か。ASEAN+3マクロ経済調査事務所(AMRO=域内の経済・金融安定を監視する国際機関)の分析によると、BSPの政策金利変更が中小企業の借入金利に波及する割合(パススルー率)は32%にとどまる。つまりBSPが1%利上げしても、中小企業の借入金利は0.32%程度しか上がらない計算だ。大企業向けの64%と比べると半分以下で、中小企業の借入金利はもともと高いリスクプレミアムが上乗せされているため、政策金利の変動に鈍感だ。
ただし、これは「影響が小さい」という意味ではない。フィリピンの銀行が中小企業に貸し出している総額は5,750億ペソ(約1兆4,375億円)で、銀行業界全体の貸出残高(12兆1,400億ペソ)のわずか4.7%にすぎない。BSPは銀行に対して貸出残高の10%以上を中小企業に振り向けるよう義務づけているが、実態はその半分にも届いていない。金利が上がれば、ただでさえ融資を受けにくい中小事業者がさらに追い詰められる構図だ。
日本企業・日系飲食チェーンへの影響
フィリピンの豚肉流通の変化は、現地で事業を展開する日本企業にも波及する。
まず、外食・食品加工分野。フィリピンには日系の外食チェーンが複数進出しており、豚カツやラーメンなど豚肉を主力メニューに据える業態が多い。EO 116による輸入拡大は、業務用の冷凍豚肉をより安定的に調達できる可能性を開く。特にKadiwa経由の調達ルートは、従来の民間輸入業者を介するルートよりもコスト面で有利になりうる。
次に、冷凍物流とコールドチェーン。輸入量が年間75万メトリックトン規模に拡大する中、冷凍倉庫と冷蔵輸送の需要は確実に伸びる。日本はコールドチェーンの技術で世界トップクラスの実績を持っており、倉庫建設、温度管理システム、輸送車両の分野でフィリピン市場への参入余地がある。
一方で、フィリピン国内の養豚業に投資している、あるいは投資を検討している日本企業は、輸入拡大による価格下押し圧力に注意が必要だ。農家の出荷価格がすでに損益分岐点を割っている状況では、養豚事業の収益見通しは厳しい。政府が1,600億ペソ規模の増頭計画を進めてはいるが、ASF前の水準に戻るには2028年以降になる見通しだ。
今後の注目点
飲食店や小売業のオーナーが今後注視すべき日程は3つある。
第一に、6月5日に発表される5月のインフレ率。4月の7.2%からさらに上昇すれば、BSPの臨時利上げが現実味を帯びる。6月18日の定例会合を待たずに動く可能性をレモロナ総裁自身が「五分五分」と述べている。
第二に、EO 116の具体的な実施要領。大統領令は署名済みだが、食肉輸入監視委員会(MMC)が30日以内に出す実施ガイドラインの内容次第で、Kadiwa経由の調達がどこまで現実的かが見えてくる。
第三に、首都圏(NCR)の最低賃金見直し。5月に見直しサイクルが始まっており、現在の非農業労働者の日額695ペソ(約1,738円)から引き上げられる可能性がある。食材コスト、借入コスト、人件費の3つが同時に動く局面では、メニュー価格の見直しや仕入れ先の再検討が避けられない。
日本企業・ビジネスパーソンが意識すべき3つのポイント
1. 豚肉の仕入れルートを見直すタイミングが来た。EO 116でKadiwa直売所や政府経由の輸入肉という選択肢が拡大する。従来の卸業者経由の仕入れと価格を比較し、品質・配送頻度・ロットサイズが業態に合うかを確認しておくことが重要だ。ブラジル産冷凍肉の品質(脂身の比率、解凍後の歩留まり)は現地産と異なるため、試験仕入れから始めるのが現実的だ。
2. 「小売は高く、農家は赤字」の構造を理解して値付けを考える。輸入量が増えても小売価格がすぐに下がるとは限らない。中間流通のマージン構造が変わらない限り、仕入れ値の改善は緩やかなものにとどまる可能性が高い。メニュー価格の設定は、短期的な値下がり期待ではなく、現在の仕入れ値を前提に組み立てるべきだ。
3. BSPの利上げ動向と最低賃金の見直しを同時に見る。食材コストだけでなく、借入コスト(政策金利は現在4.50%で追加利上げの可能性あり)と人件費(NCR最低賃金見直しが5月に開始)の三方向から圧力がかかる局面だ。資金繰りに余裕がないタイミングでの設備投資や店舗拡大は慎重に判断すべきだ。次の判断材料は6月5日発表の5月インフレ率と、6月18日のBSP定例会合の結果になる。
ソース: PTV News(5月19日)、Manila Times(5月22日)、Tribune(5月22日)、Philstar(5月22-23日)、BusinessWorld(5月22日)、Manila Bulletin(1月28日、5月22日)、PSA価格統計、BSP公式発表、AMRO分析レポート

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