1998年11月、香港のセントラル地区にある投資会社First Pacificの一室で、フィリピン人投資家Manuel V. Pangilinan(マニー・パンギリナン、通称MVP)はある決断を下した。フィリピン最古かつ最大の通信会社PLDT(Philippine Long Distance Telephone Company)の経営権を、コフアンコ家から297億ペソ(約743億円)で買い取る——当時のPLDTはアジア通貨危機の煽りで負債が膨らみ、経営難に陥っていた。同郷の旧家が手放そうとしていたフィリピンの基幹インフラを、香港を拠点とするフィリピン人実業家が買い戻す形になった。
あれから28年。PLDTは2026年第1四半期に売上549億ペソ(約1,372億円・前年同期比+3%)、純利益89.2億ペソ(約223億円)、EBITDA 283億ペソを叩き出した。傘下のSmart Communicationsは契約数6,030万でフィリピン最大のモバイル事業者(Globe Telecomと拮抗)、AI対応データセンターVITRO Sta. Rosaは年商37%増、デジタル銀行Mayaは預金760億ペソ(+73%)へ急成長。創業1928年の98年企業が、いま3つの新事業——データセンター・AI・デジタル金融——で稼ぐ会社へと姿を変えている。
米国GTEからコフアンコ家、そしてMVPへ——所有権が3度動いた98年
1928年11月28日、アメリカ統治下のフィリピンで「Act No.3436」という政府法令が承認された。法令の中身は単純だった。マニラ、セブ、イロイロ、ダバオで個別に運営されていた4つの電話会社を統合し、50年間の独占的な通信特許を付与する——その特許の受け手として誕生したのが、米国の電信会社GTE(General Telephone & Electronics)の子会社であるPhilippine Long Distance Telephone Companyだった。アジアで最も早期に商業電話網を持った国の1つとなったフィリピンは、皮肉にも米国資本の通信会社によって繋がれていた。
1930年代に入ると、PLDTはマニラ、セブ、ダバオを長距離電話で結び、さらにラジオ電話を介して米国本土とフィリピンを接続した。第二次世界大戦中、日本軍占領期にネットワークは大きな打撃を受けたが、戦後の復興と同時に再構築された。1953年には自動交換機が導入され、1958年にはダイヤル直通電話が始まった。米国本社の技術指導と資本投下が、フィリピンの近代通信網を作り上げた。
1967年、所有権が初めて動いた。フィリピンの旧家コフアンコ家(Cojuangco)が米国GTEからPLDTを買収し、本格的にフィリピン企業化した。コフアンコ家はラモン・コフアンコを総帥とする政商家系で、後の大統領コーリー・アキノ(コフアンコ家の出身)を生む家系でもある。マルコス政権下で家族・親族間の経営権争いが起き、1978年にはマルコス大統領の側近であったエドゥアルド・コフアンコJr.が経営権を強引に取得した。1986年のEDSA革命でマルコス政権が崩壊した後も、エドゥアルドはコーリー・アキノ大統領との不和を抱えつつPLDTの経営権を保ち続けた。
1997年のアジア通貨危機がPLDT経営の風向きを変えた。ペソ急落で対外債務の返済負担が膨らみ、財務体質が急速に悪化した。1998年、香港を拠点とする投資会社First Pacific(フィリピン人実業家Anthonio Salimらが創業)が動いた。Manuel V. Pangilinanを派遣し、コフアンコ家から株式の17.2%を297億ペソで買い取って経営権を取得。MVPはCEOに就任し、エドゥアルド・コフアンコは2004年まで会長職に留まったが、実権はPangilinanが握った。「フィリピンの基幹インフラを、香港経由でフィリピン系が買い戻した」と当時の現地メディアは表現している。
その後の所有構造はさらに複雑化した。2000年、First PacificとMetro Pacificが日本のNTT Communicationsと組み、Smart Communications(MVPが組み立てたモバイル子会社)とPLDTの株式を交換する取引を行った。2006年にはNTT DoCoMoがNTT Communicationsから持分の半分(約7%)を買い取り、自身がPLDT直接の株主となった。2007年にはFirst PacificがフィリピンのPhilippine Telecommunications Investment Corporation(PTIC)を介して保有を増やした。2025年末時点での主要株主はFirst Pacific Group約28%、NTT(DoCoMo+Communications)約20%、JG Summit Group約11.27%——香港系・日系・フィリピン華僑系の3者連合がPLDTの経営を支える構造だ。
「電話会社」から「データセンター会社」へ——事業構造の転換
2026年第1四半期の連結売上549億ペソの内訳を見ると、PLDTの稼ぐ仕組みは劇的に変化している。データとブロードバンド関連の売上が全サービス収益の86%(419億ペソ)を占め、レガシーの音声通話はもはや脇役だ。事業セグメント別では、モバイル(Smart Communications)が約52%、固定ブロードバンド(PLDT Home)が約25%、法人・ICT・データセンター(ePLDT/VITRO含む)が約21%、その他が約2%——というのが2026年Q1ベースの概算構造になっている。
最大の収益源は引き続きSmart Communicationsだ。2024年9月時点の契約数は6,030万でGlobe Telecomとほぼ拮抗、フィリピン・モバイル市場のシェア45%を保つ。2025年4月にはJG SummitのDigitel(Sun Cellularブランド)を買収して低価格セグメントを補強した。プリペイドSIM中心の市場で、Sun Cellularの「無制限通話・無制限SMS」プランは中所得層に強い顧客基盤を持っていた。Smartへの統合により、データARPU(契約あたり月額)の引き上げを狙う。
2番目の柱がPLDT Home(固定光回線)。フィリピンは島国ゆえに固定回線の敷設コストが高く、競合のConvergeが急成長しているものの、PLDT Homeは加入者数で首位を維持する。住宅向けFTTH(光ファイバー戸別接続)に加え、中小企業向けFTTBサービスも拡大している。
最も成長率が高いのが第3の柱、法人・ICT・データセンター事業だ。子会社ePLDTが運営するVITRO Sta. Rosaは、フィリピン初の「AI対応ハイパースケール・データセンター」として2023年から稼働を開始し、2026年Q1のコロケーション(設備設置受託)売上は前年比+37%。さらに2026年中に着工する次世代センターはルソン島中部のGeneral Trias(カビテ州)で、容量100MW——VITRO Sta. Rosaの2倍規模で、2028年完成予定だ。Pangilinan会長は「少なくともマレーシアと同等のデータセンター容量を持たねばならない」と公言しており、フィリピンを「ASEANのAIデータハブ」として位置づけ直す戦略を明確にしている。
もう1つ忘れてはならないのがMaya(マヤ、旧称Voyager Innovations)。デジタル決済とデジタル銀行を統合したフィンテック子会社で、2025年Q1に四半期純利益黒字化を達成。2026年Q1時点で預金残高は760億ペソ(前年比+73%)、融資残高330億ペソ。ライバルのGCash(Globe傘下、ユーザー9,400万人)に挑むPLDTグループの「フィンテックの矛」だ。デジタル銀行ライセンスを正式取得し、預金口座の獲得競争では業界トップクラスのペースで成長している。
Smart・Globe・DITOの3社体制——フィリピン通信の寡占構造
フィリピンのモバイル通信市場は、SmartとGlobeの2強体制が長らく続いてきた。2021年にDuterte政権が後押しした第3勢力DITO Telecommunityが参入し、現在は「3社体制」だが、シェア構造を見るとSmartとGlobeで90%を占める寡占に近い。2024年9月時点の契約数はSmart 6,030万・Globe 6,020万・DITO 1,300万。フィリピン人口1億1,800万人に対してSIM普及率150%超(複数SIM保有が一般的)という構造で、各社は契約数ではなく「ARPU(契約あたり収益)」と「データ消費量」で差別化を競う段階に入った。
Globe Telecomの最大の武器はGCashだ。Mynt(Globe・アリババAnt Group・サンライフ合弁)が運営するGCashは2025年時点でユーザー9,400万人、決済・送金・融資・保険・株式・暗号資産まで網羅するスーパーアプリ化に成功している。Pangilinanが率いるPLDTグループのMayaは「後発の挑戦者」だが、デジタル銀行ライセンスを早期に取得し、預金獲得競争で追い上げる構造を作っている。
DITO Telecommunityは中国のChina Telecomと提携した第3勢力で、Davao Holdings(Duterte家系列のUy家)が出資する。価格戦略でシェアを伸ばしてきたが、参入3年目以降の赤字額が大きく、財務体質は脆弱だ。2025年に資本増強の動きを見せたが、5G設備投資のさらなる負担で長期的な競争力には疑問符が付く。
この3社比較の中でPLDT(Smart)の独自性は、「モバイル+固定+法人+データセンター+デジタル銀行」というフルスタック構造にある。GlobeはAyalaグループの一員として不動産・銀行(BPI)・電力(ACEN)との連携を活かす経営だが、通信自体の事業構造はモバイル+固定が中心だ。PLDTのほうがデータセンター・法人ICT・デジタル銀行への踏み込みが深く、「通信会社」というよりも「デジタルインフラ・コングロマリット」へ転換しつつある。
強みと課題
強み1:3者連合(First Pacific+NTT+JG Summit)による安定統治
PLDTの所有構造は香港系First Pacific(28%)、日系NTT(20%)、フィリピン華僑系JG Summit(11.27%)の3者連合で、いずれもアジア有数の長期保有株主だ。短期の経営圧力に揺さぶられず、データセンター・AIへの大型投資判断ができる体質を持つ。
強み2:データセンター先行投資
VITRO Sta. Rosaが既に稼働し、General Trias 100MWセンターが2028年完成予定。マレーシアのジョホール、タイ、インドネシアと並ぶASEAN AIデータハブ争いで、フィリピンは電力コスト・水資源・地震リスクで不利と見られていたが、PLDTの先行投資が国全体の魅力を底上げしている。Pangilinan会長の「マレーシア並みの容量を」発言は、政府投資政策との連動も視野にある。
強み3:Maya銀行の急成長
後発フィンテックでありながら、デジタル銀行ライセンス取得とMaya決済の連携で、預金残高は前年比+73%。GCashが圧倒的シェアを持つ決済領域とは別に、「デジタル銀行」セグメントで先行する位置取りを確立している。2025年Q1に四半期黒字化済み。
課題1:モバイル成長の限界
フィリピンのモバイル市場はSIM普及率150%超で頭打ち。Smartの契約数増加は鈍く、ARPU引き上げに依存する構造になっている。Q1 2026の連結純利益が前年比微減(89.2億ペソ vs 90.6億ペソ)となった主因も、モバイル成熟化にある。
課題2:DITO・Convergeなど挑戦者の存在
固定回線ではConvergeが急成長し、モバイルではDITOが価格戦略で攻める。Pangilinan体制のPLDTは「全方位防衛」を迫られており、各セグメントへのCapex(資本支出)が膨らみがちだ。2026年通期Capexは500億ペソ台半ばと示されている。
課題3:規制・政治リスク
フィリピンの通信規制(NTC)は政権交代で方針が変わりやすい。マルコスJr.政権下では「外国資本緩和」「データセンター誘致」が追い風だが、Duterte系の影響力(DITO株主のUy家)もあり、政治情勢に応じた政策変更リスクが残る。
2026年戦略——「データセンター・AI・デジタル銀行」の3本柱
Pangilinan会長は2025年から2026年にかけて、PLDTの中期戦略を3本柱に絞り込んでいる。第一に、データセンター事業の本格拡張。VITRO Sta. Rosaの増強とGeneral Trias 100MW新設で、2028年までにPLDTグループのデータセンター容量を倍増させる計画だ。ePLDTのGPU-as-a-Service(AI計算インフラの貸出サービス)は、東南アジア初のAI対応データセンターとして、ハイパースケーラー(AWS・Azure・Google Cloud)誘致の足がかりとしている。
第二に、Maya銀行の収益化加速。2025年Q1に黒字転換後、預金獲得と融資拡大を続け、GCash追撃の体勢を整えている。第三に、モバイル事業のARPU引き上げ。Sun Cellular統合と5Gネットワーク完成度向上で、データプランの単価上昇を狙う。
2026年通期Capexは500億ペソ台半ば——前年比やや減速だが、データセンターへの傾斜配分が進む。Bangkok Post等の海外メディアは、PLDTを「ASEANの伝統的通信会社の中で、最もデジタルインフラ転換に成功した1社」と評している。98年間続いた電話会社が、AI時代のデータセンター・フィンテック会社へ姿を変える局面に立っている。
日本企業・ビジネスパーソン向け なるほどポイント
1. NTTグループはPLDTの第2位株主——日本企業の「アジア通信パートナー」関係
NTT(DoCoMo+Communications)はPLDTの約20%を保有し、フィリピン通信市場における日本企業の足場となっている。日系企業のフィリピン進出で通信・データセンターの選定を行う際、PLDTグループは「NTTがバックにある安心感」を持つ選択肢として認識される。
2. フィリピンは「ASEAN AIデータハブ争い」の新規参入者
マレーシア(ジョホール)・タイ・インドネシアが先行するASEAN AIデータセンター競争に、PLDTが100MW級のGeneral Triasセンターで本格参戦する。電力・地震・人材の課題はあるが、英語人材豊富という強みでAI関連ジョブ(運用・データラベリング)も取り込める。BPO業界との連携で、フィリピンのAIインフラ位置づけは数年で変わる可能性がある。
3. デジタル銀行はGCashだけではない——Mayaの台頭
フィリピンの個人金融はGCashの圧倒的優位が続いてきたが、デジタル銀行領域ではMayaの預金残高が急増している。日系金融機関のフィリピン市場戦略を組み立てる際、「GCash対抗の挑戦者にPLDTグループのMaya」という構図を念頭に置く意味は大きい。

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