1936年、中国・福建省晋江から12歳の少年が父親について船に乗り、フィリピンに渡った。手荷物は最小限、ポケットの中には10センタボ(当時のフィリピン通貨で約0.05ドル)しかなかった。少年の名は施至成——のちにHenry Syと名乗るこの華僑移民が、フィリピン最大の財閥SM Investments Corporationを築き上げることになる。
2025年通期、SM Investmentsの連結売上高は6,817億ペソ(約1兆7,000億円)。純利益は905億ペソ(約2,260億円)で前年比10%増の過去最高を記録した。靴屋の1号店から67年、モール99カ所、フィリピン最大の銀行、3,800超の小売店舗——Sy家の帝国は今もなお拡大を続けている。
靴屋の少年——戦火と10センタボからの出発
Henry Sy(施至成)は1924年10月15日、中国福建省晋江に生まれた。1936年、12歳のとき父親に連れられてマニラに渡り、キアポ地区で家族のサリサリストア(雑貨店)を手伝い始めた。
転機は第二次世界大戦だった。日本軍の空爆で店は全焼し、家族は生活の基盤を失った。父親は中国に帰国する道を選んだが、Henry少年はフィリピンに残ることを決意した。手元に残ったのは10センタボのみ。言葉も十分には話せない異国の地で、独りで生きていくことを選んだ12歳の決断が、のちにフィリピン経済史を書き換えることになる。
Henryはマニラの極東大学(Far Eastern University)で商学を学びながら、戦後に大量に出回った米軍の余剰在庫——ブーツや靴を仕入れて売り始めた。靴には需要がある。戦争で靴を失った人々が、新しい靴を必要としていた。この着眼が最初のビジネスの種となった。
1958年、34歳のHenryはマニラのキアポ地区カリエド通りに小さな靴店を開いた。店名は「ShoeMart」——略して「SM」。品質の良い靴を手頃な価格で提供するというシンプルなコンセプトが、庶民に支持された。1972年には初のSMデパートメントストアを開店する。フェルディナンド・マルコスが戒厳令を布告したわずか2カ月後の出店だった。政治の混乱のさなかでも商売を止めなかったことが、Henryの胆力を物語っている。
そして1985年11月8日。Henryは人生最大の賭けに出る。ケソン市のノースアベニューとEDSAの交差点に広がる40エーカー(約16ヘクタール)の湿地帯に、フィリピン初の巨大ショッピングモール「SM North EDSA」をオープンしたのだ。当時の金利は45%に達し、政治危機で経済は混乱していた。「誰がこんな辺鄙な場所にモールを建てるのか」と嘲笑する声もあった。しかし開業初日から客が押し寄せた。
SM North EDSAは「モーリング(malling)」——モールで過ごすこと自体を娯楽にする——という概念をフィリピンに根づかせた。初期の総床面積12万平方メートルは、その後の拡張で現在49.8万平方メートルにまで膨れ上がっている。
「靴・モール・銀行」——三位一体の事業構造
SM Investmentsの事業は、靴屋から出発して3つの柱に進化した。銀行、不動産(モール)、小売だ。2025年通期の連結純利益905億ペソの内訳を見ると、この3本柱の構造が明確に浮かび上がる。
第1の柱:銀行(純利益の49%)
SM グループの利益の半分近くを稼ぐのが、BDO Unibank(Banco de Oro)だ。1994年に設立されたBDOは、積極的な買収戦略で急拡大し、現在フィリピン最大の商業銀行の地位にある。2025年末時点の総資産は5兆4,100億ペソ(約13兆5,000億円)、全国に1,700超の支店と5,800台以上のATMを展開する。2025年通期の純利益は872億ペソで過去最高を記録した。顧客への融資残高は3.7兆ペソに達し、法人・個人ともに二桁成長を続けている。
第2の柱:不動産(純利益の27%)
子会社SM Prime Holdingsが担う不動産事業は、SMモールのネットワークが核だ。フィリピン国内90カ所、中国9カ所の計99モールを運営し、総床面積は970万平方メートルに及ぶ。2024年には1日平均520万人(年間19億人)がSMモールを訪れた——この数字はニュージーランドの全人口に匹敵する。モール事業がSM Prime売上高の60%を占め、残りを住宅開発(30%)、ホテル・コンベンション(6%)、オフィス・倉庫(4%)が補完する。
第3の柱:小売(純利益の18%)
SM Retailは「The SM Store」(フィリピン最大のデパートメントストアチェーン)、SM Supermarket、SM Markets、そしてコンビニ「Alfamart」のフィリピン事業を束ねる。店舗数は3,853を超える。2025年はデパート部門が前年比3%増、食品小売が7%増と堅調に推移した。
注目すべきは、利益の半分が「銀行」から生まれている点だ。もともと小売・不動産で成長してきたSMグループが、BDOの買収・拡張を通じて金融事業を最大の利益源に育てた。これはHenry Syの哲学——「買い物客にはお金が必要。モールにはテナントが必要。テナントには融資が必要」——を体現した構造と言える。客が買い物をすればSM Retailが儲かり、テナントが出店すればSM Primeの家賃収入が増え、その資金需要をBDOが融資する。3つの事業が互いの顧客を送り合う、閉じた生態系(エコシステム)が完成している。
フィリピン財閥の頂点——時価総額で競合を引き離す
SM Investmentsの時価総額は2026年5月時点で約7,430億ペソ(約1兆8,600億円)。フィリピンの主要コングロマリットの中で突出した規模を持つ。
最大のライバルはAyala Corporation(1834年創業、時価総額約3,030億ペソ)だ。Ayalaはフィリピン最古の財閥で、銀行(Bank of the Philippine Islands)、通信(Globe Telecom)、不動産(Ayala Land)、再生可能エネルギー(ACEN)と事業が多岐にわたる。しかし規模ではSMがAyalaの2倍以上の時価総額を持つ。
SM Investmentsの独自性は「消費者接点の圧倒的な面積」にある。Ayalaが企業向け・高所得者向けのサービスに強い一方、SMはフィリピンの中間層・庶民層を広くカバーする。モール99カ所に1日520万人が訪れる——この集客力が、テナント誘致・金融サービス・データ蓄積の全てにおいて競合に対する優位として機能している。
強みと課題
強み
第一に、3事業の相互送客構造だ。SMモールの来店者はBDOの口座を持ち、The SM Storeで買い物をし、SM Primeの住宅に住む。この循環がグループ全体の顧客生涯価値を高めている。
第二に、地方都市での先行投資。SMモールは首都マニラだけでなく、ダバオ、セブ、ザンボアンガといった地方都市にも積極的に出店してきた。フィリピンの消費市場は地方にこそ成長余地があり、この先行投資が今後の成長を支える。2026年にはサンタロサ(ラグナ州)にSM Nuvaliを開業予定で、総床面積13万平方メートルの旗艦モールとなる。
第三に、Sy家の結束と経営の安定性だ。Henry Sy Sr.の死後(2019年)、6人の子どもたち——Teresita「Tessie」Sy-Coson、Elizabeth、Henry Jr.、Hans、Herbert、Harleyの6兄弟姉妹が合議制で経営を継続している。創業者のカリスマに依存しない集団指導体制への移行に成功した点は、東南アジアの華僑系財閥としては珍しい。
課題
第一に、フィリピン経済への過度な依存。SMグループの売上の大半はフィリピン国内市場から生まれており、海外事業は中国のモール9カ所に限られる。フィリピンのGDP成長率が鈍化すれば、グループ全体が直撃を受ける。
第二に、デジタルシフトへの対応。GCash(9,400万ユーザー)やMaya(旧PayMaya)といったフィンテック勢の台頭は、BDOの伝統的な銀行モデルを脅かしつつある。SMモール内での決済がキャッシュレスに移行するなか、デジタルサービスの競争力強化が急務だ。
第三に、モール事業のピークアウトリスク。2024年に1日520万人を記録した来場者数は、2025年には天候不順などの影響でやや減少した。EC(電子商取引)の浸透率上昇とともに、物理的なモールへの依存度をどう制御していくかが中長期の課題となる。
最近の動向と展望——ポートフォリオの「選択と集中」
2026年に入り、SM Investmentsは明確な戦略転換を打ち出している。
2026年3月、SMグループはAtlas Consolidated Mining(鉱業会社)の30.4%持分とYCO Global Cloud Centers(データセンター)の18%持分について、売却を検討していると発表した。CEOのFrederic DyBuncioは「コア事業とのシナジーが認められない資産については、市況が良いうちに整理する」と述べている。
代わりにSMが注力するのは、再生可能エネルギーと物流だ。特に物流は、傘下の2Go Group(フィリピン最大の海運・物流会社)を軸に、EC配送やコールドチェーンへの投資を強化している。
2026年第1四半期(1-3月)の業績は堅調だった。連結純利益215億ペソ(前年同期比7%増)、連結売上高1,594億ペソ(同5%増)。銀行部門の安定成長と、小売部門の非食品セグメント(デパート)の回復が牽引した。配当は1株あたり17ペソに引き上げられ、前年の13ペソから31%の増配となった。
Sy家の6兄弟姉妹の合計資産は、Forbes 2025年版でフィリピン首位の118億ドル(約1兆7,700億円)。Henry Sy Jr.(25億ドル)を筆頭に、Hans、Herbert(各18億ドル)、Harley(17億ドル)、Tessie(16億ドル)が続く。創業者亡き後も一族の結束は保たれ、外部から招聘したCEO(Frederic DyBuncio)と元フィリピン中央銀行(BSP)総裁の会長(Amando Tetangco)が日常の経営を担う体制が定着している。
日本企業・ビジネスパーソン向け なるほどポイント
1. フィリピンで小売・飲食ビジネスを展開するなら、SMモールは避けて通れない
フィリピンの商業施設面積の相当部分をSM Primeが占める。日系飲食チェーンやアパレルがフィリピンに出店する際、SMモールへのテナント入居は最も効率的な集客手段だ。ただしテナント審査は厳しく、SM側の条件(売上歩合制の賃料、内装基準)を理解した上で交渉に臨む必要がある。
2. BDOは日系企業のフィリピン進出における主要取引銀行候補
フィリピン最大の商業銀行BDOは、日系企業の現地法人口座・融資・外為取引においても主要プレイヤーだ。1,700超の支店ネットワークは地方都市の工場・物流拠点にも対応可能で、三菱UFJ銀行との対応関係で選ばれるケースも多い。
3. 「モール中心の生活圏」はフィリピン消費市場を理解する鍵
日本では駅前・繁華街が商業の中心だが、フィリピンではSMモールが地域コミュニティの核となっている。買い物・食事・銀行・映画・行政手続き(一部モールにはパスポートセンターがある)まで、生活のあらゆる用事がモール内で完結する。この「モール中心の生活圏」を前提にマーケティング戦略を組み立てることが、フィリピン市場攻略の第一歩となる。

コメント